#シン・エヴァンゲリオン劇場版 を観てきた

生きている間にエヴァがちゃんと終わって良かったぜ。

以下、ゴリゴリにネタバレする。

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  • 失礼だが、もっと破茶滅茶な結末を迎えると思っていた。そうではなかった。綺麗に、丁寧に、全てがひとつに繋がった結末へと向かっていたことに観劇の途中で気付き、驚いた。ここでいう「全て」には旧劇やTVアニメ版でさえ含まれていることに気付いた時は、あまりの驚きに死ぬかと思った。映画館で、死なないように気を付けた。
  • たぶんこの作品では3つのことが行われている。
    1. 『:Q』の続きの物語を描くこと
    2. この作品を観劇したオタクたちに初めてエヴァを観たときと同じ体験をさせること
    3. 庵野監督と登場人物がこれまでの「全てのエヴァンゲリオン」で行われたこと(及び行われなかったこと)に対する清算をし決着をつけること
  • それらを遂行した上で、驚いたことにエヴァンゲリオンが本当に「ちゃんと」終わるのである。
  • 表面上の物語は『:Q』の続き。『:Q』では未解決だった諸問題のほとんどは『シン・』でちゃんと説明される。新設定、新用語のオンパレードに怒涛の情報量。これだ。そういえば、これが自分たちがハマッたエヴァなんだよな。そして物語は結末へ向かう。
  • 物語が結末へ向かおうとすればするほど、途中から見覚えのあるシーン、観たことのあるシチュエーション、過去作からのセリフの流用、カットの流用が増えて行く。
  • それは、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』、『DEATH(TRUE)2』、『Air / まごころを、君に』、『:序』、『:破』、『:Q』を擦り切れるほど観てきた自分にとっては瞬時に気付く仕掛けであるのと同時に、強引に捻じ込まれたファンサービスのような、ちょっと無理矢理なセルフオマージュなのか、或いは「庵野監督がただ思い付いて、描いてみたかっただけのシーンをぶっ込んだのかな」とさえ思えるほどに(つまり純粋に『シン・』を『:Q』の続編映画として捉えていては不自然なほどに)増えて行く。
    • 綾波やカヲルなどによるTVアニメ版と全く同一の印象的なセリフ
    • アスカとシンジによる旧劇場版のラストシーンと完全同一のシチュエーションの再現(超重要。後述。
    • 実写映像のぶっこみ
    • 線画だけになった画面に声優の演技だけが当てられたカット
    • 旧劇の代名詞とも言える巨大綾波が登場したあたりで、こりゃ、いよいよ若い世代や新劇場版(特に『:破』)からエヴァに入った人には意味不明なシーンのオンパレードになっていないか不安になった。
  • もはや、自分には「エヴァあるある」を見せられているようであった。そして同時にそれは「『エヴァ』という作品を描き続けていると絶対同じことが起こる(ループする)運命なんですよ」という庵野監督のメッセージを示す記号のように感じられた。そこで気が付いたのだ。

自分はいま、初めて『エヴァ』を観たときと同じ体験をしている。

  • 実際には『シン・』の内容はこれまでのエヴァとは全く別の新しい物語だ。ただし、この作品を観劇することで得られる体験は、これまでの『エヴァ』を初めて観た時に得たそれと同じなのだ。
  • 『シン・』のクライマックス以降、スクリーンの向こう側にいる作り手からの『エヴァ』の続きを描こうとすると、『:Q』までに起きた事象を(物語の内側・外側を問わず)止むに止まれず繰り返してしまうんですよ、というメッセージを強烈に感じずにはいられない。
  • 『シン・』の序盤は呻き声以外のセリフがほとんどないシンジに自分はある種の苛立ちを覚えた。それは紛れもなく、初めてTVアニメ第四話「雨、逃げ出した後」を観た時に自分がシンジに覚えたものと同じ苛立ちだった。
  • 後半の重要な局面でシンジをエヴァに乗せるのか否か、葛城ミサトと鈴原サクラと北上ミドリの台詞の掛け合い。拳銃を向け合うAAAヴンダーの搭乗員たちのシーンに覚えた焦燥感は、第弐拾参話「涙 Rei III」でミサトさんがリツコさんに銃を向けたときに抱いたそれであったようでもあるし、碇シンジが「自分はエヴァンゲリオン初号機パイロットです」と決意を胸にエヴァ初号機に乗り込む姿には、かつて第拾九話「男の戰い」や『:序』『:破』を観たときと同じようにシンジに想いを託していた。
  • 『:Q』では無機質な人造物だったはずのアヤナミレイ(仮称)が、どんどん人間らしく変わって行き、感情を理解し、シンジに愛を伝える。言うまでもなく『:序』『:破』の綾波レイを踏襲しているのだが、このアヤナミレイ(仮称)が本当に息を呑むほど可愛いし、それはたぶん、12年前に初めて『:破』を観たとき、シンジの味噌汁の美味しさに驚く綾波を観たときと同じ感情を覚え胸を射抜かれた。綾波レイは可愛い。三十路を過ぎたはずの自分は、恥ずかしながら、いまより12歳若かった頃の自分と同じように綾波にときめいた。綾波レイは可愛いこれも繰り返されざるを得ない絶対の事実なのだ
  • その他、枚挙に遑がない。
  • この考えに至ることが出来るのは、5年前『シン・ゴジラ』を観たときに以下のエントリーを読んだからに他ならない。感謝。


アニメ版、旧劇場版を含めた「全て」の清算

  • 登場人物たちと庵野監督が、これまでの物語で蓄積された疑問、解消されていない矛盾、未解決の問題、終ぞ成し遂げることのできなかった各々の課題に対して清算(劇中の葛城ミサト曰く「贖罪」)と決着をつける物語に感じられた。それがちゃんと行われるからこそ、『シン・』が物語としても作品としても紛うことなく「終わり」なのだ。
  • TVアニメ版の後半に散見された、実写映像をぶっ込んだり、台本を直で映したり、イメージボード(っていうの?ラフ画?)だけの画面に声優の演技だけ当てられただけのシーンは、様々な意図が考察されてはいる。が、制作時間や製作費などの事情から「そうせざるを得なかった未完成のシーン」であったのがその実であろう。
  • 『シン・』の最後に現れる線画だけのシーンは、明らかに演出として効果的に示されていた。なんなら普通の「完成した」シーンよりも手間がかかっているのではなかろうか。一部のオタクからは黒歴史とも捉えられていたあのTVアニメ版のラストを作品の一部として受け入れ、演出として取り込む庵野監督の意地のようなものを感じずにはいられない。
  • 息子を拒絶し続けてきた碇ゲンドウは『シン・』の劇中で漸く明確な台詞の中でその事実を詫び、シンジと向き合う。
  • 「他人の想いと死を受け入れられるようになったか。大人になったな、シンジ。」の台詞。言うまでもなく、『:破』での「自分の願望は(中略)、他人から与えられるものではない。大人になれ、シンジ。」と対になっている。
  • 加持リョウジ、渚カヲル、式波・アスカ・ラングレー、各々に対する魂の救済(かつてTVアニメ版第弐拾伍話及び最終話にてシンジがそうであったように)が明確に示される。
  • 最後までキャラがブレることなく不思議ちゃんであり続けたマリは、シンジを「ワンコくん」、アスカを「姫」などと呼ぶが、遂に『シン・』のクライマックスの重要な局面で「シンジくん!」「アスカ!」と叫ぶ。本筋とは無関係に本作で最も自分が震えたシーンはこのマリによる本名呼びであった。坂本真綾さんの演技の説得力たるや凄まじい。
  • 同様に、アスカからは「初期ロット」、第3村の女性たちや鈴原ヒカリ(旧姓:洞木ヒカリ)からは「そっくりさん」などと呼ばれるアヤナミレイ(仮称)が、絶命直前にシンジに「綾波はやっぱり綾波だよ」とか言われるシーンもグッときた。
  • 渚カヲルだけは、物語の外側を含めてこの作品がループしていることを明言する。
  • 他の登場人物もなんとなく「繰り返す」ということに気付いている節があった。
  • 加持さんが、碇ゲンドウと同じ服装になってるカヲルくんを「渚司令」って呼ぶシーンだけは全然理解が追いつかなかった。あれ何?あの辺りのシーンの情報量がイカれていたのでちゃんと覚えていないというのもある。もう一度観に行かなければならない。
  • 葛城ミサトの贖罪と清算の物語。今度こそ上官として、母親役として、保護者としてシンジと向き合う。鈴原サクラの放った銃弾からシンジを庇い、負傷した身体で最後の槍をもう一本造ってマリに託し、シンジの元へ届けるために行動し、そしてAAAヴンダーと共に散っていったベジータもびっくりの見事な自爆劇は、事ここに至り完全にミサトさんが主人公になっていた。あの一連の流れは、紛うことなく葛城ミサトがこれまで(『:序』からではなく、アニメ第壱話から、否、セカンドインパクトの日に父を失ってから)の全てに決着を付けた瞬間だった。
  • そういえば旧劇場版でもミサトさんはシンジを庇って被弾していた。かの有名な「大人のキスよ。帰ってきたら、続きをしましょう。」の台詞の後、結局被弾したことが致命傷となって死亡する。『シン・』の葛城ミサトは被弾しても死ななかった。
  • 話が逸れるが、この「清算」の概念はドラゴンボールのブウ編を彷彿とさせる。以下のエントリーが素晴らしいので参照されたい。


(いま気付いたけど今回参照している2本のエントリーは同じ筆者のものなのか。驚愕。)

  • あまりにも有名な旧劇場版のラストシーンの再現。赤い波の寄せる海辺に横たわるシンジとアスカがスクリーンに映し出された時は一瞬、このまま「気持ち悪い」→【終劇】で終わりにするパターン来るか!?と焦ったが、シンジはアスカの首を絞めることもなく、感謝の言葉を述べ、好意の告白をする。この時だけはアスカのプラグスーツがTVアニメ版のデザインになっていた。
  • 『:Q』で決定的となってしまったシンジとアスカの蟠りだけでなく、これまでのシンジとアスカの複雑な関係を清算するシーンである。旧劇場版のときの、不気味に眼球と腕だけを動かしたアスカの強烈な印象も相まってか、『シン・』に於けるこの海辺のシーンは本当に美しく輝いていたように思う。
  • オタクなら知っている人も多いかもしれないが、旧劇ラストのアスカの「気持ち悪い」は台本にはない。本来であれば「アンタなんかに殺されるなんてまっぴらよ」だった。紆余曲折(オタクなら知ってるよな)を経て、宮村優子さんのアドリブでああいうラストになった。不可解過ぎて賛否あり過ぎた。あの波紋と議論を呼びまくったラストシーンに対する、庵野監督自身の清算のシーンでもあるのだ。
  • 他、枚挙に遑がない。先述のやや不自然に挿入される「見覚えのあるシーン」の数々は、庵野監督がエヴァという作品に、登場人物たちが各々の過去を全て受け入れた上で清算する為の仕掛けに他ならない。