2chのレスが「便所の落書き」ならば、Facebookは「便所のない家」である

おーきくんという後輩がいて、自分がTwitterをやめる宣言をした日に夜更けまでSkypeで付き合わせてしまった。あの日、おーきくんと自分はTwitterだけでなく様々なwebサービスについて、ひいてはインターネットの現状について酔っぱらった頭でごちゃごちゃと論じていた。今回は、そのときの会話を元にエントリーを書いている。つまり3割くらいは彼の発言をパクッている。スマン、おーき。

余談だが、1日にあれだけの数のツイートを垂れ流していた人間が突然スパッとTwitterをやめるとどうなるか。答えはひとつ。ツイートの代わりに、Evernoteに「ネタ」というタグの付いたノートがジワジワ増えるのである。喜ばしいことだ。思い付いたその場から思考が出て行ってしまうという、自分を悩ませていた事態を避けることができている。以前、Twitterに垂れ流してる言葉を寄せ集めてブログの記事が書けそうだとボヤいていたが、それが概ね目論み通りに実現されつつあるということである。いやはや、実に喜ばしいことだ。大事なことだから2回言った。

現時点では、Evernoteには書きかけのエントリーが4本くらい溜まっている。本エントリーもそのうちの1本だ。書き上がった順にブログに投下するので、この文章が人目に触れるのはだいぶ先のことかもしれない。

2ちゃんねるってすごい

遅くなったが本題に入る。ちなみに「すごい」っていうのは、ここでは恐ろしいとか凶悪だとかいった、どちらかというとネガティブなイメージで捉えてもらいたい。別に美しいとか崇高だとか価値があるとかいう意味では断じてない。寧ろ2ちゃんねるのレスのひとつひとつは、はっきり言ってゴミだ。

それでも、すごいと言わざるを得ない。何がすごいかって、2ちゃんねるは絶対になくならないからだ。「2ちゃんねる」ではなく「巨大匿名掲示板群」と読み替えてもらっても構わない。自分たちがいま知っている、あの2ちゃんねる(http://www.2ch.net/)が法的に消されることは今後あるかも知れないが、その場合もそう時を待たずに代替的なサービスが登場するはずなのだ。2chがなくなっても3chや4chを作る人間がすぐに現れて、第二の2chとなるに違いない。そういう意味での「なくならない」ということである。これは一応根拠があって、そもそも「2ちゃんねる」という名前が「第二のあめぞう」という意味なのだから、この理屈は2ちゃんねるの存在自体がその裏付けとなってくれている。

余談だが(十数行ぶり2回目)、今日の産経さんの一面をタイムリーなニュースが飾っていた。
「2ちゃんねる」を強制捜査 覚醒剤書き込み放置の疑い 警視庁-MSN産経ニュース

インターネットは諸行無常

基本的にwebサービスには栄枯盛衰があって、例えば数年前まで爆発的に流行っていたmixiも現在は下火で、気付けばSNSとしての立ち位置はFacebookに取って代わられてしまった。遥か昔の話になるが、ブログが流行る前にはwebスペースを借りて使うのが主流で、多少コアな趣味を持つ女子高生や中学生たちは手打ちのhtmlでせっせと個人webサイトを作っているものだった。それらが手軽に利用できる前略プロフィールやブログに淘汰されていったのだ。いまや個人ブログもTwitterに淘汰されつつある。最近では、ブログなんていうのは、ともすれば人気ブロガーたちや芸能人しか書かないものになってきている。実は自分がTwitterに流れることを嫌い、頑なにブログを続けている理由のひとつに、こうした傾向に抗いたいからというモチベーションも微妙に含まれている。別に有名人でも何でもない、ただの大学生がひっそりと書いてるブログもあんねんで、と。

余談だが(約10行ぶり3回目)、この栄枯盛衰を強く実感する出来事があったので紹介しておきたい。自分は半年程前まで大学の学科HPの更新をするというバイトをしていた。普通にhtmlとcssを手打ちで操作する程度のものだったから楽チンにやっていた。しかしひとつだけ苦労したことがある。後任が一向に見付からなかったのだ。思いっきり文系大学の、思いっきり文学部の、更に思いっきり英文学科ともなるとhtmlを打てる人間でさえ非常に少ない。そして遂に、1つ2つ下の学年には数える程しかいなくて、見付けてくるのに一苦労するといった事態が発生する。これは恐らく、ちょうど自分の世代くらいを境目に「少しオタク系の人間でもブログで事足りた時代」に突入したからであろう。若い頃に手打ちhtmlでwebサイト作って遊んでました、なんて人間がいるのは自分たちがギリギリ限界なのかも知れないなあ、と思った次第だ。

余談ばっかりだ。話を戻す。

2ちゃんねるはインターネット上の文化や流行が様々に変化して行く中で、ほとんど誕生当初から形を変えないまま存続している。そして今後もそうであろう。この視点に立つと、考えれば考えるほど「すごい」と言わざるを得ない気がしてくる。根拠はないが、敢えて言うならば恐らくそれは人間にとって根源的に、もっと言ってしまえば生理的に必要なものだからだ。

「生理的に」というキーワードを捻り出したところで、おなじみの表現に登場してもらう。

便所の落書き

2ちゃんねるの書き込みを、上では「ゴミ」と言ったが正確には少し違う。これはもはや「うんこ」だ。しかしうんこだと以後本エントリーにウンコウンコ書きまくって非常に見苦しいことになるので、もう少し表現を変えて「便所の落書き」とする。

考えてみて欲しいのは、便所に行かない人間はいないということだ。2ちゃんねるのレスを便所の落書きだというのなら、2ちゃんねるはまさに便所そのものということになる。人間が生きている以上、便所が必要とされ続けるのと同様に、インターネットを利用する人間がいる以上、匿名性を求める人間がいなくなることはない。

先程、2ちゃんねるについて「流行に関係なく」「ほとんど形を変えないまま」存続しているという旨を書いた。ここがポイントで、便所たる所以である。人類史上、便所ほど形を変えないまま存続しているものがあるだろうか。その理由は、人類がどんなに技術を進化させようとホモサピエンスの形状/生理現象/うんこをする時の姿勢を進化させることは出来ない事情があるからに他ならない。

もちろん、2ちゃんねるも便所も、全く形を変えていないわけではない。昔の2ちゃんねるはread.cgiを使っていて、ブラウザ閲覧がメインとされていた。これは言ってしまえばボットン便所だ。いまはだいぶ進化していて、ログを直接取得して2chブラウザで閲覧するのが主流となっている。これは全自動水洗便器みたいなものだ。最近は透明NGとかAA整形とか便利な機能を持ったブラウザもある。冬でも暖かい便座とか、ウォシュレットの様なものであろう。

まあ、その程度の進化はあったけど、やはり「ほとんど形を変えないまま」存続している。

(もちろんインターネットを利用していても2ちゃんねるを利用していない層というのは数多くいるので、この喩えは正確にはかなり無理がある。したがって「2ちゃんねる」ではなく「webサービスにおける匿名性」について話している、と読み替えていただければ幸いである。)

webサービスが栄枯盛衰である理由/「2ちゃんねる」がなくならない理由

ここまで長々とインターネットを「家」に喩えて、2ちゃんねるを家の中の「便所」に喩えてきた。
要するに家には必ず便所があるように、webサービスから匿名性を排除することは出来ない、ということだ。

2ちゃんねるが存続している一方、様々なwebサービスが次世代の別のwebサービスに淘汰されてしまう理由はなんだろうか。結局のところそれは流行に左右されるもの、言い換えれば「根源的に」「生理的に」必要とされていないものであったということだ。人力車は自動車に淘汰され、いまや自動車もハイブリッド車に淘汰されつつある。文庫本は姿を消しつつあり、電子書籍が急速に普及している。万年筆と便箋は、スマホとDMに置き換わった。それと同じである。mixiもFacebookもTwitterも前略プロフィールも個人webスペースも、自動車や文庫本みたいなものに過ぎなかった。

この話をさらに一段階進める。

webサービス上において、どの程度まで匿名性を許すかという問題には様々な線引きがあり、その度合いこそが各々のwebサービスを特徴付ける大きな要因のひとつとなっている。…なんてのは今更書くほどでもない、誰にでも分かることなのだが、ここではインターネット上でしばしば見られる光景のひとつに着目したい。廃れ始めたwebサービスが「延命措置」として、この匿名性の度合いを大きく方向転換する現象である。

ひとつ例を挙げると、その代表格はmixiだ。

mixiでは、当初は「本名で友達を探せる」ということを最大の売り文句にしていた。登録者数の肥大化と共にだんだんと匿名性が増し、本名を非公開にする機能が実装され、やがて運営から「本名での登録は推奨しません」というアナウンスが出る。いまとなっては事実上ほぼ匿名で、中年オヤジが白昼堂々セックスフレンドを見付ける為に若い子をナンパしまくっている。かの有名な「ケツ毛バーガー事件」のような事例が発生するようになる。…こんな具合だ。

重要なのは、より多くの人に求められる仕様に方向転換しようとすると、どういうわけか、どんなwebサービスも匿名性の高い方向へ転換するということである。それはすなわち2ちゃんねる(=便所)に近い方向へ転換しているということである。

そうして、延命を続けたwebサービスはどんどん便所臭くなってゆく。

実はここに2ちゃんねるがなくならない最大の理由が隠されていると自分は考える。2ちゃんねるは便所臭いもなにもない、そもそも始めから便所だった場所なのだ。すなわち廃れ気味のwebサービスにありがちな延命措置の最終的な到達点である「100%匿名」が既に実現されてしまっている場所なのである。この方法論については賛否あろうが、理屈さえ正しいとするならば2ちゃんねるは「絶対に廃れないwebサービス」であるということになってしまう。

「便所」がゲシュタルト崩壊してきた

便所便所便所便所って、うるせー。
このブログがうんこ臭くなって来た気がする。

ごめんなさい。続き行きます。

家のどこに便所を作るか

もうひとつ提言があるので書いておく。

webサービスを作る際、他のwebサービスと相互に影響し合い、場合によっては密接に作用し合うということを忘れてはならない。そしてその延長線上には「巨大匿名掲示板群」の存在を無視することが出来ないという事情があると自分は考える。新しいwebサービスに対し、2ちゃんねらー(=匿名投稿者)たちがどういうリアクションをし、巨大匿名掲示板群とそれに付随する既存のwebサービスとどういう位置づけで関わるかということを考えた方が良いということだ。

つまりwebサービスという「新しい家」を作るとき、「便所をどこにするか」をしっかり考えなければならないということだ。さもなくば便所のない家ができてしまう。

Facebookは「便所のない家」である。

長々と書いて来たが、あくまでポイントは匿名性が保持できる場所=便所であるという一点だ。ここで初めて我々がFacebookを利用する上で感じざるを得ない、あの言い様のない「居心地の悪さ」の正体が明らかになる。匿名性が極限まで排除されているからだ。はっきり言って0%である。うんこをすることが許されない場所、すなわち、あそこには便所がない。これがFacebookの正体である。

いまやFacebookはかなりの繁盛ぶりである。あの巨大欠陥集合住宅が今後どのように便所臭くなってゆくのか、密かに楽しみにしている次第である。