卒業が決まりました

高校卒業から6年が経ってしまいました。
ようやく大学を卒業します。
( 去年:あと14単位 - ピザ屋の彼女になってみたい )

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他人より何周も遠回りしていますが、かけがえのない充実した期間であったと自負しています。
ここで出会った人たちや自分を成長させてくれた様々な事柄に感謝してやみません。

ちょっと昔話をします

初めて『蹴りたい背中』を読んだ大学1年生当時、言い様のないゾッとした衝撃を受けました。

蹴りたい背中

蹴りたい背中


こんな本を有り難がって読んでたことを振り返ると、ガキだったなって思いますけどね。
いまこれを読んでも「ふーん」って感じです。

自分にとって重要だったのは物語の内容ではなく、主人公ハツの語りに出てきたどうしてそんなに薄まりたがるんだろうという一節でした。
この6年間、薄まりたくない、その一心で生きてきました。

最初の数週間が既に転機だった

どういうわけか、自分は大学入学当初「人格は18歳までで完成する」という謎の持論を持っていました。個人の根底の部分や基本的な性格、「個性」は大学生ともなってしまうと変わりようがなく、そこから先の人生は単なる経験の積み重ねでしかない。…そう思っていました。

思い返すと恥ずかしいのですが、入学して僅か数週間で自分は絵に描いたような5月病にかかっています。自覚はありませんでしたが、大学デビューというやつだったんでしょう。既に18歳を過ぎた自分が急激に薄まって行く。そのことが怖かったのかも知れません。そしてそれは、取り返しのつかないことに思えました。

大学入学後数週間で既に某ナガイ先輩と出会っていた自分は、そのどうしようもない絶望を先輩に相談したことを覚えています。

某ナガイ先輩がニヤニヤしながら言うには、「んなことたーネェ。」
お前は大学ってもんを勘違いしている。いまに分かるから安心しろ、と。

大学には「ハツ」がたくさんいる

蹴りたい背中』の主人公ハツは、2種類の人間を象徴しているように思います。

ひとつは、薄まりたくないと願い、アイデンティティを頑なに守ろうとするハツです。何度もこのブログに書いていますが、当たり障りのない人間はちっとも面白くないのです。しかし実際は世の中には人間が多すぎる。少しでも油断していると、すぐに「同じ溶液に浸かってぐったり安心して、他人と飽和(※本文より抜粋)」してしまいます。

溶液に浸かりそうになっては、抗って、その繰り返しの中でこそ人は己の真価を発見し自覚するのではないかと思います。

もうひとつは、強がって世間を斜めに観ているハツ。「余り物も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない、不毛なものだから(※本文から抜粋)」というセリフに表れているような、社会に順応することを嫌悪しているハツです。こういう人って大学生になってもそれなりの数いるんですよね。そうした人たちも何人か見てきました。(海がきこえるのヒロインに対しても同じことを感じた)
どちらかというと『蹴りたい背中』はこの「強がりのハツ」をテーマにした物語です。

薄まることと、順応しないことは違います。ひとり目のハツのように抗っていたいけれど、もうひとりの方のハツになってしまってはダメだということもまた明白です。

「蹴る」とはつまり「殻を破ること」

よく後輩に人に迷惑をかけろという話をします。まあこれも一言では語弊があるので件のエントリーを読んで欲しいのですが、重要なのは、良い意味で人に迷惑をかけることは殻を破っている人間でないと出来ないということです。

その他大勢の人間になるのは簡単です。溶液に浸かって飽和することは簡単です。
つまり油断していると人間はいつでも殻に閉じこもってしまうのです。
その殻を破り続けられる人間になることが、つまりは薄まらない人間になるということなのではないでしょうか。

この6年間は、自分が殻を破る6年間だったのだと実感しています。