「一生懸命」のベクトルの話

先生とOBと4年生と、最後の方に3年生が何人かやってきて、飲んだ。
懐かしい先輩方、懐かしい先生、そして後輩たち。
10学年以上に渡って愛され続けている先生を囲んでの飲み会は感慨深いものがある。
(感慨深いとか言ってるけど、実際は酔っぱらって大騒ぎしていただけかもしれない)

いまの現役団員たちは、どうやらスゴいものを持っている。
それは先生も見抜いてくださっていて、それを如何に引き出そうか模索しているんだよ、と仰っていた。
ポテンシャルは、潜在しているだけでは所詮はいつま経っても「潜在能力」である。

音楽には正解はない。つまり「完成形」など存在し得ないのである。
現時点で、おのが至高だと考える音楽の形を思い描き、それに向かって努力と葛藤と挫折を味わいながら一歩ずつ近付いていく、その試みが我々音楽人にとって永久の課題である。貪欲にならなければならない。楽しまなければならないのである。
協調性だけではなくて、時にはしゃしゃり出て、ずうずうしくなって他人より一歩得をするくらいの図太さが役立つときだってある。

OBになって*1思うのは、楽しんでいるときこそ次々と良い音楽を創り出す後輩たちの姿が見えるようになったことである。先生は合奏がだんだん楽しくなってきたと仰っていた。みんなも「楽しいから」どんどん良い演奏をするようになっている。しかし、だからこそ、少し上を求められて余裕がなくなったときに、いままで「楽しんでやってたおかげで出来ていたこと」が出来なくなってしまう。

「一生懸命」練習して、80のことができた。
だんだんそれを楽しめるようになって、100くらいになっていた。
でもそれで終わりではない。
そうなれば、貪欲に、120のことを要求されるのが音楽である。
そのときに悪い意味で「一生懸命」な状態に戻ってしまう。
結果として80のことしかできなくなってしまう。
今年は特にそういう傾向が強いのかな、と思う。
本当に真面目でイイコたちだけど、そのイイコさが仇になるときが勿体無いのである。

繰り返しになるが、音楽に正解はない。
120のことを求められたとき、先生は時に厳しいことを言うかもしれないが、それは何かしら決まっている「正解」を強要するものではない。たぶん今の自分たちの音楽が間違いだって言われてるんだ、という誤解をして引っ込んでしまわないで欲しい。せっかく楽しくなってきたのだから、その自分たちの良さを殺すほど必死になってはいけない。
楽しんで大らかに演奏している後輩諸君の音楽は本当に素晴らしいものだから。それを先輩たちは知っているからだ。

なにをすれば良いか分からなくなってしまうことは何度もあるに違いない。
是非、自分たちのやりたいことを「ずうずうしく」やってしまって欲しいと思うわけである。

*1:この立場になると、途方もなく偉そうなことを平気で言えるようになるから困る。「奏者」に先輩も後輩もないのに。