What we ask you

ゼミ合宿に行って来た。一言でいえば実に有意義な時間であった。
無事この一言に辿り着けることを素直に喜びたいと思う。

全国には無数の大学が存在し、無数のゼミが存在する。それらの中には、より効率的な学習の場として恒例化した合宿を例年行事としているゼミも無数に存在するだろう。彼らもまた有意義な時間を過ごして己の力を磨いているはずだ。
大学のゼミに限らず、世間ではあらゆる部活動・サークルによる無数の合宿が行われ、長い年月によって蓄えられた経験・人脈を活かし、洗練されたスケジュールによって生産的な活動を行っている。この例としては専フィルが毎年やっている合宿がそれである。ああした合宿の伝統は、2年や3年で作ることの出来るものではない。

しかし、我々は違う。

今回の合宿は第1回目であった。言わば参加者全員がパイオニアだった。少なくとも去年のいま頃は、今年合宿を行うなどとは誰も思っていなかったはずである。
思えば去年1年間、ゼミで自分はただただタスクをこなすだけの時間を消費していたかもしれない(もちろん全くの無駄な時間だったという意味では決してなく、他の授業に比べれば遥かに主体的に問題を探し、積極的に追求していたことも事実だが)。
春休み期間中、自分たちのあり方について、自分たち自身から疑問をぶつけたのが全ての始まりだった。このままの時間を過ごすのではなく変化を求め、ひとつの方法としてゼミ合宿を思いついた。自分たち自身ですら実現するとは思いも寄らなかったが、結果はこの通りである。

この2泊3日は、このゼミが去年とは変わった、そして自分たちで変えることができたのだと身を以て体感する時間であった。全員がこのゼミに所属したことを喜び、その境遇に感謝できる経験を得る時間でもあった。4年生は良き後輩に、3年生は良き先輩に出会えたことを実感する時間となった。それは最高の先生の元に集まった、最高の仲間達との望外の巡り合わせだったのである。

伝統というのは時に素晴らしいものだが、何年も同じ行事を繰り返していると時に怠慢を産むこともある。つまりは「去年までと同じことだけをやれば良い」という、悪い意味での儀礼化である。こうした主体性の希薄化は実に恐ろしく、これまでの人生で自分が見てきたものの中には、そうした意味の置き換わりによって価値をなくしてしまった伝統が幾つもあった気がしてならない。それはもはや伝統ではなく悪習である。

逆に言えば、全く経験のない試みは多くを産む可能性を秘めている。合宿「第1回目」というのはそういう意味で大いなるチャンスであった。本当に喜ばしいことに、何人もの仲間が各々のバックグラウンドを活かし、その領分を遺憾なく発揮してくれていた。最終日に先生が仰っていた、ケネディの有名なスピーチのアレンジが印象に残った。
" Don't ask what your seminar can do for you, ask what you can do for your seminar. "
ゼロから作った合宿だからこそ、あらゆることが主体的であった。そして何より本当に楽しかった。欲張りな経験を出来たと思っている。

いつも専フィルの合宿から帰ると書いていることなのだが、合宿はひとつの「目標」ではあるが、同時に通過点であり決してこれ自体が目的ではない。あくまでプロセスの一環である。そしてこのプロセスの良いところは、次の「目標」を見付けて帰ってくることが出来る点なのだ。
今回のゼミも良き合宿であった。今後のゼミでの活動が更に躍進することを期待したい。