『シン・ゴジラ』を観てきた。死ぬかと思った。本当に良い映画だった。人間って、あまりに良い映画を観ると死にそうになるということを初めて知った。
夜の間に濫読した多様なレビューの中で、以下のエントリーがぶっちぎりで良かった。ネタバレが無いので、未視聴の方でも安心して参照されたい。
自分の所感と同様の内容を上記エントリーがほぼ余すところなく書いてくれているので、以下は蛇足である。
自分は3種類のゴジラを知っている。
ひとつは「ヒーロー」としてのゴジラ。
もうひとつは「古典」の中に登場するゴジラ。
そして「シン・ゴジラ」だ。
ゴジラはヒーローだった
自分が幼少期にリアルタイムで観ていたのは平成ゴジラシリーズだ。その中でゴジラは「ヒーロー」として映っていた記憶しかない。未来人が作り出したキングギドラとか、宇宙から来たスペースゴジラみたいなブッ飛んだ設定の敵を、放射火炎でブッ飛ばしてくれる超ド級のヒーロー、それが自分が最初に出会ったゴジラだった。ゴジラの登場シーンはヒーローの登場シーンに他ならなかったし、バース島はヒーローの棲む島だったし、街を壊すゴジラの姿はヒーローの雄叫びそのものだった。良いぞゴジラ、もっとやれ、と応援しながら観ていた。デストロイアの最後でメルトダウンするゴジラの姿は、有終の美を飾るヒーローの最期だった。
あまりにゴジラが好きになったので、母に頼み、昭和シリーズも幾つかレンタルビデオで借りてきてもらった。最強の敵怪獣として名高いヘドラは噂通りに強かったし、平和を愛するモスラはゴジラでも倒せない強敵であったし、海底のメガロと宇宙のガイガンのコンビには、ジェットジャガーだけでは太刀打ちできない。ゴジラはそれらの悪役たちと果敢に戦ってくれる、ヒーローだった。
やがて「古典」へ辿り着く
母が時折借りてきてくれるレンタルビデオは過去作へと遡っていき、あるとき初代ゴジラに辿り着いた。このゴジラだけは、ヒーローではなかった。人類の敵としてモノクロの画面に現れ、街を破壊して絶望を撒き、最後にオキシジェンデストロイヤーによって泡にされて消えたゴジラは、自分には「古典の登場人物」に見えた。
一緒に観た父は絶賛していたが、幼い頃の自分には面白くなかった記憶しかない。敵怪獣との痛快なバトルがなかったからであろう。しかし幼いながらも、自分の大好きなゴジラの原点なのだということは強く意識した。よく分からないけど、とにかく、このゴジラから全てが始まったらしい。その記憶は昨日まで失せていた。
ゴジラはヒーローではなかった
ようやく本題だ。
昨日『シン・ゴジラ』を観てきた。死ぬかと思った。ずっとヒーローだと思っていたゴジラはヒーローではなかったのだ。かつて人類とゴジラが戦ったらしいという「古典」を知っていたが、シン・ゴジラは古典ではなく、2016年の凄まじいリアルとしてスクリーンに現れた。圧倒的な、絶望的な強さ。ゴジラを倒してくれるヒーローなんていない。人類には、為す術がない。シン・ゴジラを観ながら「良いぞゴジラ、もっとやれ」と応援することなんて一瞬たりともなかった。
ゴジラ、もうぼくたちを許してください。
スクリーンを観ながら、そう思った。ただただ無慈悲で、理不尽なゴジラの姿に驚き、心の中で平伏し、祈り、畏れ慄いた。初代ゴジラの意味を、昨日やっと理解した。幼少期の自分に「古典(=よく分からない映画)」として映った初代ゴジラは、昭和29年のリアルだったのだ。
そしてシン・ゴジラは2016年のリアルなのだ(この辺を上記で紹介したエントリーが上手に語ってくれている)。
東京を火の海にするゴジラに絶望しながら、自分は同じ庵野監督の『巨神兵東京に現わる』の中で語られる「創造主ばかりが神ではない」というセリフを思い出していた。
私は昨日の夜のうちに、ちゃんと伝えるべきだったのだ。もっと大きな声で叫ぶべきだったのだ。今住んでる街がなくなるとか、いつもの日常がなくなるとか、普通に生きててどうやって言うの?
でももうそんな警告、届かない。伝わらない。災厄そのものが今目の前で立ち上がる。
創造主ばかりが神ではない。自分の願いや祈りを聞き届け、叶えてくれる存在だけが神というわけでもない。大きな災厄が人間と似た形で空から降りてきて私たちには判る。畏れこそが神の本質なのだ。
だから人間たちは自分たちに危害を加え命を奪おうとするものにも手を合わせ膝を折り、拝み、祈る。
『シン・ゴジラ』のゴジラは怪獣というより災害である。人間の力ではどうにもならない災厄への畏れ、それは神の本質なのだ。ゴジラ(呉爾羅=Godzilla)が我々に与える絶望と畏れは、神の与えるそれと同じだ。