百田夏菜子はカカロットであり続けるか

久しぶりにアイドルについて書こうと思う。
( 前回:前田敦子はチャイコフスキーになれるか - epytoerets )

ただその前に、国民的人気漫画であるドラゴンボールの原作コミックス版全42巻のストーリーをおさらいしておく。

  • 武術の達人である孫悟飯が記憶を失った少年を拾う
  • その少年は孫悟空と名付けられ天真爛漫で純粋無垢な普通の少年に育つ
  • ブルマと出会ってドラゴンボールを探す旅へ出る
  • ピッコロ大魔王を倒す
  • 宇宙からやって来たベジータと戦い、悟空は実は宇宙にあるサイヤ星に住む戦闘民族サイヤ人が地球侵略の為に送った戦闘員カカロットだったという出生が明らかになる。
  • ナメック星に行きフリーザを倒す
  • 人造人間を吸収した完全体セルを倒す
  • 魔人ブウが地球を滅ぼす
  • ベジータ「悟空、お前がナンバーワンだ。」
  • 天界で悟空がブウを倒し、死んでしまった人々や地球も元通りになる。
  • 10年後、天下一武道会が開かれ悟空たちが参戦するが、そこにはブウの転生である少年ウーブがいる。
  • 悟空がウーブを修行へと連れ去り、終わらない冒険へと旅立つ。その後は語られない。

ラストが重要で、読者と共に成長を続けて来た悟空は更なる成長の可能性を秘めたまま物語は幕を閉じる。悟空はずっと我々のヒーローであったし、物語が終わった後も悟空は成長し続け、ヒーローであり続けるという希望に満ちた大団円となっている。後で重要になるので、覚えておいていただきたい。

自分たちはもう大人になった

約3年前の自分は、もういままでの様な恋愛は出来ないという自覚を持ち始めていたし、やがて就職活動を経て、サラリーマンになった。大人の世界は実に住みやすく、この便利で快適で完成された世界の平和を享受できる素晴らしさを知った。しかし一方で、この完成しきった世界はとても窮屈で息苦しくて、ちっとも人間らしくないということも知ってしまった。世界には夢も希望も満ちてなどいない。

大人になったときに失ったものが2つある

ひとつは淡い恋心であり、もうひとつはヒーローになるという夢を叶えることだ。

前者を代替してくれるのが一般的なアイドルである。以下のエントリーを参照されたい。
恋愛禁止の作法<アイドルオタク編> - osoroy essay: おそらくは夢を
知人のブログだが、素晴らしい文章なので是非とも読んでおいていただきたい。本エントリーなんかよりも優先して欲しいくらいだ。

一般的なアイドルのファンは、アイドルの姿に「若かりし頃に恋心を抱いた異性」としての役割を投影することで、失われてしまった淡い恋心、甘美な切なさを再体験することができる。その経験の中でアイドルはヒロインであり、ファンはおのおのが主人公である。

ヒーローにはなれない

校舎に侵入して来たテロリストを自分が超サイヤ人になって返り討ちにする妄想もしなくなったし、アクションスターやポケモンマスターに憧れることもなくなったし、内閣総理大臣になりたいとかベンチャー企業の社長になるという夢もだんだん抱かなくなった。いい大人になった自分たちのほとんどは、大抵サラリーマンのまま一生を過ごし、人並みに幸せな家庭を持ち、その生涯を終えるであろうことを知っている。

資本主義と民主主義の名の下に完成された世界のシステムに組み込まれた一個人は、もはやヒーローを夢見ることは出来ない。

しかし自分がヒーローになるという妄想のストーリーには血湧き肉踊る壮大なドラマがあった。是非ともあの憧れをもう一度抱き、あわよくば叶えてみたいが、それには若さと可能性と時間が必要である。既にそれを失った自分たちは(前者の「淡い恋心」の時と同じように)それを外に求めなければならない。

これを代替してくれる存在として一般的には「ファンタジーの中のヒーロー」が存在する。スーパーマンジェームズ・ボンドシャア・アズナブル島耕作モンキー・D・ルフィ、そして冒頭で述べたカカロットなどだ。しかし、矛盾するようであるが、この「ヒーローの夢の代替」となり得るアイドルが現実世界に存在する。

ももいろクローバーZ

やっと本題に近付いて来た。

アイドルが本来持つべき役割(=若かりし頃に恋心を抱いた異性)とは違い、ももクロのファンは彼女たちの姿に「若かりし頃の自分」を投影している。年齢的にもヒーローに憧れていた頃の自分たちと変わらない彼女たちがトップアイドルへと成長してゆく様は、まさに「血湧き肉踊る壮大なドラマ」の具現である(これには一応仕掛けがあって、かつて百田夏菜子玉井詩織は「次の契約更新でクビになるタレント」のリストにいたが、ほぼ偶然川上アキラに拾われ、やがて国立競技場へ至るというサクセスストーリーをファンは知っている)。

一般的なアイドルが「自分がグループの中で一番」になるべく努力するのに対し、かつて紅白出場を目指していた頃の彼女たちは「グループとして知名度や人気を得る」ことを行動原理としていた。従って彼女たち一人ひとりが担っていたのは集団の構成員としての役割であり、個の主張ではない。その姿はアイドルというよりも、我ら日本人が根源的に持つ「侍」の精神、兵の魂、もののふの武士道を彷彿させる。

ヒーローの恋愛はスキャンダルではない

この節は余談というか蛇足だが、一応書いておく。

アイドルは恋愛感情の対象を投影されている性質上、恋愛はスキャンダルに直結する(上で紹介した知人のエントリーではその瞬間にこそノスタルジーがあるとしている)。しかし、ももクロのファンが彼女たちに託しているものはヒーローとしての偶像である。

投影されているものが恋愛感情ではないとするならば、それは彼女たちの恋愛によって消化されないのではないか。ヒーローの恋愛はスキャンダルではなくロマンスである。しかし一方で、彼女たちはアイドルである。誰がどう見ても正真正銘のアイドルであり、当然のことながらアイドルの恋愛はスキャンダルである。実はここに「『ヒーローの夢の代替』をするアイドル」としての、ももいろクローバーZの決定的な矛盾が隠されている。

未だ、ももクロのメンバーの恋愛報道はないので、この結果がどうなるのかは誰にも分からない。実に楽しみである。

成長するヒーロー

話を戻す。

彼女たちは2012年に「紅白歌合戦出場」の夢を叶え、2014年に「国立競技場」という夢を叶え、未だ可能性を秘めている。それはファンタジーの中でしか有り得なかった「成長を続けるヒーローの姿」の具現である。そして、その姿は全ての大人たちが、大人になったが故に失わざるを得なかった夢を代替する役割を持っている。

国立競技場の舞台に立つ彼女たちの姿にファンが見るものは、投影された若かりし頃の自分たちが夢を叶えた姿なのだ。

彼女たちの国立での「ももクロを存在させ続ける」という宣言は、成長と冒険を続けるヒーローそのものである。
cf. ナタリー - ももクロ、国立で宣言「笑顔を届けることにゴールはない」

でも、あの、みんなに笑顔を届けることにゴールはないと思うんです。だから、みんなに笑顔を届けるためにこれからも私たちはずっとずっといろんなことをしていきたいなって思います。
私たちは、天下を取りに来ました。でもそれは、アイドル界の天下でもなく、芸能界の天下でもありません。みんなに笑顔を届けるという部分で、天下を取りたい。そう思います。

完成された世界のシステムに組み込まれ、大人になり、ヒーローになる夢を終ぞ叶えることの出来なかったファンである我々は、その夢を彼女たちに託している。彼女たちが夢を叶え続ける限り、可能性を秘めたヒーローであり続ける限り、ファンの夢も叶い続けるのだ。