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前田敦子はチャイコフスキーになれるか

まずは有名なプッチとDIOの会話から。

「なぁ…知ってたか? プッチ。パリのルーブル美術館の平均入場者数は1日で4万人だそうだ。この間、マイケル・ジャクソンのライブをTVで観たが、あれは毎日じゃあない。ルーブルは何十年にもわたって毎日だ…。開館は1793年。毎日4万人もの人間がモナリザとミロのビーナスに引きつけられ、この2つは必ず観て帰っていくというわけだ。スゴイと思わないか?」

「スゴイというのは数字の話か?」

「そうではない…すぐれた画家や彫刻家は自分の『魂』を目に見える形にできるという所だな。まるで時空を越えた『スタンド』だ…」

「興味深い話だな…レオナルド・ダ・ヴィンチがスタンド使いかい?」

(出典:ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン (11)

音楽の話に置き換えてみる。

大げさに言わなくても、24時間365日、世界のどこかで必ずチャイコフスキーの音楽は聴かれている。特にいまの時代はiPodやらウォークマンのレベルから、世界中のあちこちで演奏会が行われるレベルまで、どこかで必ず音楽が鳴っている。5年前の今日もそうであったに違いないし、それから今日まで毎日、そして今日から20年30年後までの毎日、変わらず世界のどこかでチャイコフスキーの音楽が聴かれていることだろう(あくまでクラシック音楽の一例として挙げている点に注意してもらいたい。この話は別にベートーヴェンでもラフマニノフでも一緒である)。

DIOの例だとダヴィンチの絵画、ここではチャイコフスキーのクラシック音楽を例に挙げているが、他にもこういうのは幾つかある。ぱっと自分がいま思いつくのは、ロックバンドならビートルズとか、ジャズナンバーならサッチモのWhat a Wonderful Worldとか、その辺だろうか。

一方で、音楽は世の中に溢れ返っている。氾濫していると言っても過言ではない。一過性の音楽、いわゆる「流行の」音楽は商品でしかなくて、それは消費される対象でしかない。ある時代に消費し尽くされてしまう音楽は、1年か2年くらいは爆発的に流行るが、20年30年後には誰も聴かなくなってしまう。分かりやすい例が、アイドルが握手権のオマケに付けてるCDに入っている歌など。
( cf. 音楽に「価値」はあるか。 - epytoerets )

サリエリという作曲家がいる。モーツァルトと同じ時代を生きた作曲家だ。もちろんサリエリもクラヲタなら知らない人はいないであろう偉人であるが、世間一般的にはモーツァルトほど知れてはいない。彼が生きていた時代には、モーツァルトと人気を二分していたとも言われるのだが(色々説があって、毒殺しようとしたとか、盗作しようとしたとかいう説まであるが、この辺は作り話らしい)。これも理由は同じで、サリエリの音楽は当時の人々にはものすごい人気があったが、それ故その時代に消費し尽くされてしまった。モーツァルトは理解されない部分も多かったが、それ故に今日まで残っている。

淘汰されてしまうものと、何十年何百年に渡って残り受け継がれるもの。アイドルの歌とチャイコフスキー。サリエリとモーツァルト。そこが違う。そういう意味で、ダヴィンチの絵画も、チャイコフスキーの音楽も、ビートルズもサッチモも未だ「消費し尽くされていない」のである。DIOの言う「時空を超えたスタンド」とは、そういう要素を持っている。

前田敦子というアイドルがいる。AKB48の一番前の一番真ん中で歌って踊っている子で、ものすごい人気があるらしい(ネットでは色々言われているが、それも人気故だろう)。別に自分はAKB48や前田敦子のファンではないのだが、彼女がある番組で受けたインタビューが非常に印象に残っている。

「AKBは、いまのままでは20年30年後には誰も覚えてくれてないと思う。
 自分はそれじゃあダメだと思う。
 何かを残さなきゃいけないけど、未だAKBはその『何か』を成していない。」

要するに彼女は、自分が「消費される存在」でしかないということに気付いている。近い将来、それが消費し尽くされる瞬間が必ずやってきて、いまの流行や人気は期限付きだということに気付いている。別にファンではないが、少し、オッ、と思った。これを聞く限り彼女はその辺のアイドルとは一味違うように思う。前田敦子はチャイコフスキーになれるか。現実的なことを言うと、答えは当然ノーだが、彼女が「AKB48」「前田敦子」という商品、すなわち消費対象物をどこまで昇華させられるか、少し期待したのもまた事実である。

だいぶ話がズレたが、クラシック音楽に戻る。この冬われわれはチャイコフスキーを演奏する。改めてその意義を考えてみるべきではなかろうか。20年30年後の専修大学フィルハーモニー管弦楽団はどんな姿をしているだろう。その頃まで、この冬のわれわれの演奏は誰かの心に残っているだろうか。残るだけの演奏ができるとするならば、それはどんな要素を持っていたが故だろうか。

本日は初見合奏である。