鬼門

f:id:epytoerets:20091005130924j:image:right:w200第九、3楽章133小節目からの4小節間。
超鬼門。

よく「数学ができれば音楽はできる」と言う。一理あると思うし、自分も今まで音楽をやってきて、そう感じる場面は何度もあった。

例えば2楽章のスケルツォなんかは、スコアを見ながら部分ごとにフォーカスすると、数学的に解決できる部分が多い。ここは3小節で1つのユニットになっていて、3拍子を構成してる。ここは4拍子、つまり4小節で1ユニット、それが5つ連続になっていて、その次から2小節単位で…という様な具合だ。*1

割り算だけで、かなり分析できる。
言ってしまえば、ある程度は「わかりやすい曲」だと思う。
f:id:epytoerets:20091005130914j:image:right:w200でも、3楽章は違う。
フォーカスすればするほど、わけがわからなくなるし、だからと言って広角で捉えようとしても何も見えてこない。

学指揮はよく「先生と同じように拍を振り分ける」という努力をする。この前の合奏で先生はこう振ってたから、学指揮でも真似をする、という具合。*2
でも、この楽章は全然そういうわけにいかない。逆に「先生が前回こう振ってたから」って理由だけで、その方法に固定してしまうのはあまりに危険。指揮者が違えば振りが違うのは当たり前、そして同じ指揮者でも毎回振り方や、方向性が変わってくる。二度として同じ音楽など有り得ないのだ。*3

3楽章の合奏は特に、先生だろうが学指揮だろうが、抽象的な表現が多くなってくる。
テンポを掴んで欲しいところでも、単純に「テンポを掴め!」だとか「拍を数えろ!」って言葉を使いたくはない。そういうことじゃあ、ないからだ。もちろん結果的には拍を数えろってことなんだけども、そういう数学的なアプローチをして欲しいわけじゃあない。

「テンポ」ではなく「流れ」を読んで欲しいというか、もっと人間的というか、抽象的というか、描写的というか、そういう音楽を作りたいからだ。隣の人や前の人が息を吸う音を聞いて欲しい。実際聞こえるはずがないのだけど、遠く離れた管楽器と弦楽器の首席同士で、あたかも互いの息を吸う声を聴こうと努力するかのような、そうやって方向性を見出して欲しい、そんな音楽。

弦楽器だろうが管楽器だろうが、息を吸わなきゃ楽器は弾けない。流れを読むというのは、つまり、息遣いを感じ合うってことかもしれない。それは決して数学的なアプローチだけでは解決できない、生身の人間にしかできない音楽であるはずだ。

交響曲第9番第3楽章、このことを少しでも聴衆に感じてもらえればと思う。

*1:もちろん、2楽章だってそれが全てじゃあないことは強調したい。こんなのは初期段階のアプローチ。

*2:これは曲によってはとても重要である。本指揮の振り分け方を把握し、それに慣れる練習というのは必要だからだ。学生指揮者はこの努力を惜しんではならないと思う。

*3:3楽章だけでなく、全ての音楽に共通することでもある。