困憊

他人を嫌いになることができない。というお話。


実はいま、僭越ながら俺の価値観で物申させていただくと、便所のネズミのクソにも匹敵するカスみたいな人間と一緒に行動したり、生活の一部を共有しなければならない状況に陥っている。
非常に疲れるし、無益であり、有害であり、空虚であり、神経に打撃を受ける生活を送っていると言える。それでも、やはり俺はその人間を嫌いにはなれない。


ずっと「その人間」と書いてると文脈的にややこしくなるので以後は仮にヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディと呼ぼうかと思ったが長いので、少し考えた結果ここでは仮に「彼」とする。


先ほどカスみたいな人間と書いたのは、俺はたった半年ほどの期間の付き合いにも関わらず、彼の中にどうしようもなく稚拙で横暴で傍若無人な性格を見いだしているからだ。
そしてここが最も重要なのだが、彼を嫌いになるということは彼のその性格を許せない俺がいるということである。


「嫌いになる」=「許せない」である。
ここまではよろしいだろうか。


許せないということは許容を超えているということであるが、俺は許容というのはイコールその人間の器の大きさだと思っている。
カスみたいな彼の、カスみたいなその性格を許せない自分は、そのカスみたいな彼の性格と同等又はそれより器が小さいのではないか。俺はそう考えてしまう。
更に言えば、この彼の性格というのは彼の一部に過ぎないので、彼の全体像はより大きな存在である。つまり彼の一部ですら自分の許容を超えているとなると、自分は相対的により小さな存在であることを認めることに思える。


果たして、俺はそんな人間だろうか。


例えば近所のガキが悪戯で他人の家の窓ガラスを割ったとしよう。
当然、家主は近所のガキを叱るわけだが、最終的には「なあに子供の悪戯さ、今日叱ってやったんだからもうやるまい。」と言って許してやるのが大人である。ここで本気で腹を立てて裁判を起こしたり、子供を殴り潰す大人はいない。
良い大人がマジギレしてたら、その近所のガキと同等の器しかないということだ。真に寛大な大人なら、子供に窓ガラスを割られたくらい何とも思わずに受け流すかもしれない(そんな人間は滅多にいないだろうけど)。
許容というのはこれに似ていると俺は思う。


長くなったが、俺は以上のようなことを考えている。
結果として、いままでの人生でほとんど嫌いな人が現れずに生きて来た。


そしてその性格が災いしてか、冒頭にも書いたような些か理不尽な生活に陥っている。